昭和52年07月09日 朝の御理解
御理解 第58節
「人が盗人じゃと言うても、乞食じゃと言うても、腹を立ててはならぬ。盗人をしておらねばよし。乞食じゃと言うても、もらいに行かねば乞食ではなし。神がよく見ておる。しっかり信心の帯をせよ。」
「しっかり信心の帯をせよ」と仰られる。本当にまぁ泥棒と言われたり、乞食だと言われたりと言う事はまぁ、まぁいうならば一番腹の立つ事でしょう。けれどもしっかり信心の帯をさせて頂いたら全然問題でない。本当仰っておられるように、人を物を盗ったりせにゃ泥棒じゃないし、もろうて歩かなきゃ乞食じゃないのだからね、だからもう全然信心の帯をしっかりしておる時ならば問題ではないのです。
信心の帯が緩んでおるから、何時私が泥棒したかと言った様な事を言わなければならん。そこでそのしっかり信心の帯をする、と言う事はどう言う事かと言うと、もう本当に一つの悟りをね開くというかもう一切が神愛だと。いうなら悪口を言われるでもそれは神様がねその人の口を借りて、もう本当にまぁいうなら自然界にはただ丸うする、丸うする働きだけしかない。それは千年万年掛ってでも丸うせずにはおかんと言う働きであると言う事を、私共が分からせて頂いたら、所謂神愛であると言う事が分かる。
だからこの本当にあの、信心の帯をしっかりすると言う事は、結局合楽理念をマスターすると言う事。まぁいうならこの頃から、文男先生がある会合で、合楽理念を語ってくれといわれた時に私のいうておる事、行のうておる事が合楽理念だ、という風に言ったと言う事ですけれども。ね、私の言うておる事、行のうておる事が日々合楽理念に基づいてあるとするならです、例えそりゃ乞食だと言われても、泥棒だと言われても、腹の立つだんじゃありません。
それは信心の帯がしっかりしておる時ですから、もう本当に愈々神様がその人の口を通して、言うておられると言う事が分かったら、本当に自分の成程他人様の物を取ったり、もろうて歩きこそせんけれども、自分の心の中にそれこそ最低の自分というものを見極めてまいりましたら、成程泥棒心がある事あること、乞食根性がある事あることと言う事になるです。もう愈々自分を深めて行く他はない。
そういう合楽理念というものは徹したものなんです。合楽理念に基づいたら。ですからもう合楽理念に基づいたら、この場合御理解58節なんかは、もう必要でない位になってくるんですこういう教えは。けれどもそこまで到達する。信心の帯をしっかり閉めて、緩めないとするまでの、これはみ教えだとこういう。実をいうたら大変難しい事の様です。泥棒だと言われたり、乞食だと言われたり。これはもうありとあらゆるなら、まぁ悪口というても良いでしょう。
それをもうどっこいと言う様な風に受けるのじゃなくて、もう全然問題ではない様、受け方が出来る。それは合楽理念に基づいたら、そう言う事になるのです。そう言う事になったら、ならどう言う事になるかというと、私は今一時の信行の後にミニ御理解というかね、まぁ一口の御理解を塗板に掲示してある様なのを、ちょうど十年間続けさせて頂いた。それでもう大体この教典を、この信行を終わると大体二遍通り回って来る。後20節ばかり残るんです。
そこで今私はあの昨日から、もう100節の方からですね、そのずっとご神意を頂きながら、今度あれが記念祭の、記念出版になって印刷屋に早く渡さなければなりませんから、もうこのここの信行が終わると同時に、向こうに原稿を渡されるように、昨日からまぁ頂いております。例えば100節の方から読んでみましょう。100節はあの「めでためでたの若松様よ、枝も栄える葉も茂る…」というね、「生神金光大神は、家繁盛子孫繁盛の道を教える」というあれです。それに対する御理解。
「子孫繁盛家繁盛の道を教えて下さい」と神様に手紙をだした。神様から返事が来た。それには「体の丈夫を願え」「願うからには夜食をするな」。「家庭円満を願え」と「願うからには人を決して責めるな」とありましたというのです。この二つが本当にま、実行出来て守れたらね、家繁盛子孫繁盛の道間違いないです。というほどしに素晴らしい。そういうことが、なら、いわば、合楽理念の中には、内容としてあるんです。
これは私がいうならあの五つの願いが、起こった時に実行しておる事なんです。だからその二言だけ。例えばもう絶対人を責めない。絶対に大酒大食をしない。勿論夜食なんかする様な事は金輪際しない。と言う様な事がです、もう行の上に頂けたら、体の丈夫は間違いないし、家庭の円満は勿論間違いないです。責めると言う事をしない。この二言だけで、なら子孫繁盛の道は開けて来るんです。
それから99節を頂きましたら、丁、昨日参りました、末永先生の手紙の一節をここに書かせて頂いたんですね。99節は「無学で人が助けられぬと言う事はない。むしろ学問をしておると、学が身を食うと言う様な事がある。此の方は無学でも人が助かっておる」というあの99節です。ですから末永先生が、手紙の中に書いておるその一節を書くと、もう本当にあの教祖様のあのお言葉というものが素晴らしい事になって来るんです。99節ですね。
南米布教に出ている末永建郎先生よりの手紙の一節。「ブラジルへ来て二カ月たった今日ハッキリ分かりました事は、学問やら言葉やらは左程当に成るものではありません。只限りなく美しく豊かに大きくなる以外ありません。結論して海外布教は合楽理念を基に、頂く他はないと言う事を身をもって解らせられました。毎日百名近い参拝者があり、その大半、外人の方達ばかりです」とありましたと。
いかに無学であってもね、例えよし言葉が通じなくても、ね、人が助かる。まだあちらへ行きまして二ヶ月ですけれども、愈々はっきり分かった事は、言葉とか学問というものは、左程当に成るものではありません。人が助かると言う事、自分が助かると言う事の上においてはです、結論すると合楽理念を基にする以外はありません。とあります。それになら学が身を食うと仰る。身を食わんような学問をすれば、又別であります。学が邪魔にならない様なおかげを頂けば、愈々素晴らしいです。
言うならばその観念から抜け切らない。学問をしてなら医学なら医学を勉強すると、もうそれこそもう本当にね、もうそれこそ漬物でんなんでん、消毒せんならんごたる気色が起こって来る訳です。そんなもんです。これはもう既に学が身を食うとるわけですね。98節、98節は「心は神信心の定規じゃによって」というあの御理解。「お伺いをする時には、取り分け平気な心で」という。98節。
「習字の稽古をするに、最初は楷書から一点一画をおろそかにせぬ事が大事であるように、神様に向かう心も、正しく落ち着いて静かに願う稽古をして行くうちに、流れるように行書草書が書けるように、神様との交流が頂けるようになる」とあります。97節も頂いたわけです。97節はまだヒントを頂いたばっかりでした。97節の事をお願いしよりましたら何でしたね、あっ「鯉口三寸」と言う事を頂いたです。
大体鯉口三寸とはどう言う様な事ですか、というてから昨日の研修の時に西岡先生に聞いたら、あの例えば侍が例えば急にこの敵に襲われますね。そういう時にでもです例えば切られてもです、鯉口三寸をぬいておればそれで家は安泰だそうです。けれども不意に不意打ちを食った時にです、その鯉口三寸にも手をかけていなかったら、もうお家は断絶になると。というほどしに侍の厳しい姿勢を示されておるわけです。
これは神様へ向こうたら槍で突かれてもね、人声が耳に入る様な事であってはならない。槍で後ろから突かれても、振り見向く事はならんと仰るような、いわゆる厳しいもの。同時に今度は鯉口三寸というのはね、抜く事の出来ない所。例えば松の廊下でならあの抜刀した。それがもう切腹になったように、もう抜刀しなくても鯉口三寸を切ったら、もうこれは刀を抜く物だ、誰かに切り付ける物だとみなされて、その身は切腹、家は断絶というような厳しい掟があったんです。
鯉口三寸をぬいておかなければ、家が断絶。鯉口三寸をぬいておったら、お家は断絶身は切腹と言った様なです、その場が違うとそう言う事になるのです。まだ私はその97節は、その鯉口三寸というその御理解を、あのみ教えを頂いて、そしてまぁ今申しました様な事を、なら理解付けるだろうとこう思うのです。今皆さんに聞いて頂いたのはです、その神髄の所は全部合楽理念の中にあると言う事です。そして今日私が御神前で頂きましたことはね、全ての字ですね。
例えば全ての漢字にですね、木偏をつくれと言う事。例えば道なら道という字を書いたら、その横に木偏をつくる。木偏を書いて道とかく。久富の久という字にでも、木偏を書いて久という字を書くと。どう言う事だろうかと思ったら、矢張り木は気に通じましょう。ですからなら私共が一言一言にです、どう言う事にならなければならないかというと、本当をいうたらね、死んだ気でと言う事です。死んだ気で。と言う事は我情我欲を捨ててと言う事なんです。
けどもそれがちっと難しかならです、祈念の祈と頂いた御祈念の祈です。祈念するの祈です。全ての字に木偏を付けたら、いわゆる全ての事に御の字をつけると言う事なんです。それを具体的にいうとです、ならある場合は死んだ気で受けなきゃならない。ある場合は祈ってそれを頂かなければならない。そこに信心の帯を緩める事のない、働きが起こって来るのです。まさかの時でも必ず鯉口三寸をぬけるだけの、いうならゆとりが出来てくるでしょう。勿論ここでは絶対という時にはです。
どんなに血の涙が流れるような時であってもね、例えば泥棒といわれてもです、乞食だといわれても腹を立てるような事はないでしょう。ぐっと、いうならば鯉口三寸に手をかける様な事はございませんでしょう。ですからならこの58節を、又こう申しますとです。全てにいうならば木偏を付けて、頂けばね問題はない。いうなら全てが、神愛の現れであるというたら、御の字を付けなければおられない。
それを御の字を付けなければならん事は分かっておるけれども、それを少し具体的に言うとです祈って受けよ。又は死んだ気で受けよ。と言う事にもなるのです。だからそこに全然問題がないのです。何故かというと神様はおかげを下さろうとする働きのみしかないからです。ですからそういう素晴らしい、それでいて大変な事をです合楽理念は、ね、いうならみやすう説いてあるのです。しかもそんなら自分が助かり人が助かると言う事は、それこそ学問はなくても、ね、いうならば言葉は分からなくても。
海外布教が出来るというほどしの働き、力を持っておるのが金光教です。合楽理念にはそういう素晴らしい金光教の力とか働きをです、ここによせ集めるというか、それを生粋のものにしたものが合楽理念なんです。素晴らしいでしょう。ですからそれをです。なら一通り分かったというだけではなくて、限りなく恐らく是をなら又一生、私共はそれにしぼって、全ての事の上に、取り組んでいかなければならないと言う事。58節はだから合楽理念を知らんまではね。
矢張り泥棒といわれて血の涙が流れるような、乞食だといわれて、本当に残念はがいいという思いをするような人に対するこれは御理解なんです。そういう時には信心の帯をしっかりせよ。成程信心にはこんなにずんだれておったと言う事が分かる。そのいうならば、いうなら腹が立った時には、信心の帯がゆるんでおると思うて腹帯を締めなおすと、腹の立つだんじゃない。お礼を言わねばならない様な事に腹を立てたり、悔んだりしておる様な事が、沢山あると言う事で御座います。
どうぞ。